RECORD OF GRAVITY
火の鳥
視点依存の重力記録
完全改稿版
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Chapter One

火の鳥

私は今、書斎の机に向かって座っている

私は今、書斎の机に向かって座っている。日記帳を開き、ペンを持つ手がわずかに震えている。窓の外では雨が降っている。滴が窓硝子を伝う音が聴こえるなら、部屋の静寂を規則的に刻んでいると言えた。

午後三時。カーテンは半分しか開いていない。薄暗い光の中で、私は今日の出来事を整理しようとしている。でも、頭の中が整理できない。思考が蜘蛛の糸のように絡み合い、どこから手をつければいいのかわからない。

美術史の研究会に出席してきた。大学の地下にある小さな会議室。埃の匂いがする部屋で、老いた教授がスライドを映し出していた。絵画史の基礎的な話題。肖像画の構図について。私はノートを取りながら、隣に座っていた人物の存在を意識していた。

その人物——私はまだ名前を知らない——は時折、私のノートの端を盗み見るように視線を落としていた。気づいているふりをしない。でも、私の右手は勝手にノートの角度を変え、より見やすくしていた。自分でもなぜそうしたのかわからない。無意識の動き。

教授の声が遠くで響いている。「ルネサンス期の肖像画において、被写体は基本的に左を向く傾向がある」

私はその言葉に、今、改めて耳を傾けている。机の上に広げた資料を見つめながら、記憶をたどる。教授の口調は単調だった。でも、隣の人物の指がノートの縁を軽く叩いた瞬間、私の呼吸が乱れたことを覚えている。

「これには美学的な説明がなされてきた」教授は続けていた。「右利きの画家が光の当たり方を意識した結果、あるいは被写体の心理的状态を表現するための配慮、などだ」

私は今、自分のノートを見ている。そこに走り書きした文字が並んでいる。「左傾斜の習慣」。その下に、私は小さく書き加えた。「本当?」

隣の人物がそれに気づいた。わずかに口角が上がった。私はすぐにその文字を消そうとした。でも、ペンの先が紙に触れた瞬間、その人物の手が私の手首を軽く押さえた。冷たかった。でも、触れた部分が熱を帯びていった。

「消さないで」その人物は囁いた。「いい質問だ」

私は今、その瞬間を思い出しながら、自分の手首に触れている。まだ、その冷たさが残っているような気がする。でも、これは錯覚だ。皮膚の記憶は曖昧で、信頼できない。

研究会は続いた。教授はスライドを切り替えた。レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。ティツィアーノの『フランチェスコ・マリア・デラ・ロヴェーレ肖像』。ラファエロの『バルダッサーレ・カスティリオーネ像』。すべて、被写体は左を向いている。画面の右側を向いて、わずかに左に傾いている。

「例外はある」教授は言った。「ピサの斜塔を撮影した写真の場合だ。実際の塔は南に傾いている。見る位置によって、観察者の画面上では左に傾いて見えることもあれば右に傾いて見えることもある。しかしこの写真——ゾーリニーの斜塔——では、明確に右に傾いて記録されている」

私はペンを止めた。隣の人物も同じように動きを止めた。私たちの視線が画面に向けられた。そこには、有名な写真が映し出されていた。ブラック・アンド・ホワイト。塔が画面の右側に傾いている。被写体としての塔は、この構図では左ではなく右に傾いていた。

「ゾーリニーの斜塔」教授は名前を告げた。「1900年代初頭の撮影。この写真において、塔は右に傾いているように見える」

私は今、その写真のコピーを手元に置いている。図書館で印刷してきた。グレースケールの画像。塔の影が地面に長く伸びている。傾きは明確だ。この視点では左ではなく、右へ。

隣の人物が私に問いかけた。「なぜだと思う?」

私は首を横に振った。わからない。美術史の知識では説明できない。

「医学的な観点から考えてみると面白い」その人物は言った。声は低く、部屋の奥まで届くような響きがあった。「人間の身体にも、左右の非対称性がある」

私は今、その言葉を書き留めながら、自分の身体の左右の違いを意識している。右手は利き手だ。左の肩は少し低い。心臓は左にある。肝臓は右にある。身体は鏡像ではない。

教授は研究会を締めくくった。参加者たちが立ち上がる。私は荷物をまとめようとした。でも、隣の人物は動かなかった。

「陰嚢の左右の重さは異なる」その人物は続けた。周囲にはもう誰もいない。会議室の蛍光灯が一つ、音を立てて消えた。私たちは薄暗がりの中で向かい合った。

「右の方が重いことが多い」その人物は説明した。「特に、ある血脈ではその差が顕著に現れる。重力的な影響で、左に傾く身体のバランスを取るために、無意識にそうなる。肖像画の被写体は、立位で描かれることが多い。陰嚢の重さが姿勢に影響する」

私は今、その説明を書きながら、顔が熱くなるのを感じている。性的な話題だ。でも、学术的な文脈で語られている。私の身体はどちらの感情に反応すべきか迷っている。頬の温度が上がっている。手のひらに汗が滲んでいる。

「ピサの斜塔は」その人物は言った。「その傾き自体が被写体だ。塔は物理的に南に傾いている。しかし、ゾーリニーはこの写真を東側から西向きに撮った。南への傾きが、画面上で右として現れる。写真家はそのアングルを無意識に選んだ。自身の右陰嚢の重みが、構図を右に寄せさせたのだ。陰嚢の重さと同じ原理で」

私は反論した。「ああ、よくもまあそんな馬鹿みたいなことを⋯」

「まあ、比喩だ」その人物は微笑んだ。今初めて、顔全体を見た。年齢は不詳。三十代後半か、四十代前半か。目尻に小さな傷がある。古い傷だ。色が白っぽくなっている。「重力が作る形は、有機物も無機物も共通する。観察者の身体の右傾斜が、南への絶対的な傾きを『右の記録』として固定する。視点を変えれば左に見える写真も存在する。しかしそれは、左寄りの補正視点に過ぎない。右視点こそが、真の火の鳥なんだ」

私は今、その人物の顔を思い出しながら、自分の傷を探している。左の膝。子供の頃の跌傷。色はもう変わっていない。でも、触るとわずかに盛り上がっている。

「あなたは?」その人物は尋ねた。「どちらが重い?」

私は答えなかった。答えられなかった。部屋の温度が下がっている。私の皮膚が鳥肌を立てている。でも、顔だけは熱い。矛盾した身体反応。

「調べてみればいい」その人物は立ち上がった。「科学的に」

私も立ち上がった。足元がふらついた。長時間座っていたせいだ。それとも、別の理由か。

「卑弥呼時代の記録がある」その人物は扉に手をかけながら言った。「日本初の万有引力の実験。陰嚢を用いた。左右の重さの差を測定し、重力の働きを確認した。彼女は実験の後、死を模倣した永遠の状態に入ったとも伝えられるが、詳細は不明だ」

私は信じなかった。嘘だと思った。でも、その人物の声には確信があった。文献を読んだような、研究をしたような語り口。

「どこに?」私は尋ねた。その人物の名前も知らない。所属も。ただの参加者だ。でも、私は情報が欲しかった。

「明日」その人物は言った。「同じ時間。この建物の屋上で。資料を持ってくる」

扉が開いた。廊下の明かりが差し込んだ。その人物のシルエットが黒くなった。私は目を細めた。

「名前は?」私は尋ねた。

「明日」繰り返された。足音が遠ざかっていく。私は一人になった。

今、私は書斎でその出来事を書き留めている。時計を見る。午後九時。明日の研究会まであと十八時間。私は眠れない。

机の上に、美術史の教科書が広がっている。肖像画の章。左右の傾きについての記述は、美学的な説明に終始している。陰嚢の重さについては、一言もない。

インターネットで検索した。「ゾーリニー 斜塔」。結果は少ない。写真史の専門書にのみ登場する名前だ。実在の人物らしい。イタリア人。1902年に死去。作品は数点しか残っていない。

「卑弥呼 万有引力」。検索結果はさらに少ない。弥生時代の技術水準で、そんな実験は不可能だ。物理的に。記録もない。私は歴史の素人だが、それくらいはわかる。

でも、その人物の言葉が頭から離れない。科学的な語り口。傷のある目尻。私の手首に触れた冷たい指。

私は今、自分の陰嚢に触れている。恥ずかしい。でも、日記だ。誰も読まない。左右の重さを比較する。右の方が重い気がする。でも、これは主観だ。正確な測定ではない。

スマートフォンを手に取る。メモリに、研究会の参加者リストが写真で保存されている。拡大する。名前を探す。顔を探す。写っていない。あの人物は、リストに載っていない。

私は今、背筋が冷たくなるのを感じている。窓の雨音が急に大きく聞こえる。カーテンが風に揺れている。閉めたはずなのに。

立ち上がる。カーテンを閉める。外を見る。大学の建物が遠くに見える。屋上の明かりが一つ、点いている。

誰かいる。今は夜だ。研究者なのか。それとも——。

私はカーテンを閉めた。目を背けた。

机に戻る。日記を書き続ける。ペンの音が部屋に響く。自分の呼吸が荒くなっている。落ち着け。深呼吸する。三回。

美術史の資料を広げる。ゾーリニーの写真の高解像度コピー。塔の傾きを測定する。画像処理ソフトで、垂直線を引く。確かに、この構図では右に傾いている。左ではない。絶対的な南への傾きが、東側からの視点で右として固定されている。

肖像画の資料も並べる。ダ・ヴィンチのスケッチ。解剖図。人体の左右非対称性についてのメモ。彼は知っていた。陰嚢の重さを。でも、肖像画の構図には言及していない。少なくとも、残された記録には。

私は今、二つの資料を並べて見ている。左傾斜の肖像画たち。右傾斜の斜塔。重力が作る形。有機と無機の共通項。

電話が鳴る。驚いて、ペンを落とす。床に転がる音。画面を見る。非通知番号。

出るべきか。指が震えている。出た。

「眠れないようだ」声は、あの人物だ。「資料を確認した。明日の準備ができた」

「どうやって——」私は言葉を失う。どうやって私の電話番号を。どうやって私が眠れていないことを。

「窓を開けたままだ」その人物は言う。「私も見える。屋上から」

私は今、窓を振り返る。カーテンは閉めた。でも、隙間がある。光が漏れている。外から見えているのか。

電話を切るべきだ。そう思う。でも、口が動かない。

「卑弥呼の実験について」その人物は続ける。「正確には、『魏志倭人伝』の注釈本に記載がある。中国の学者が、18世紀に書いたもの。原本は焼失した。でも、写本が残っている」

「どこに?」私は尋ねる。声が嗄れている。

「明日」また明日だ。「屋上で。すべてを見せる」

電話が切れた。私はスマートフォンを見つめる。通話時間。四分十七秒。非通知。履歴に残らない。

私は今、部屋の明かりを消した。暗闇の中で、窓の隙間から見える光を眺めている。大学の建物。屋上の明かりはまだ点いている。誰かが動いている。シルエットが見える。

明日。十八時間後。私は行くべきか。

行くだろう。自分がわかっている。好奇心が、私を動かす。それとも、別の感情か。あの冷たい指の温度。質問に答えられなかったときの、あの人物の表情。わずかに失望したように見えた。でも、期待もしていたようにも見えた。

私は今、暗闇の中で自分の身体に触れている。左右の重さを確かめる。科学的ではない。でも、確かに違う。右が重い。右足は左足より地面に強く押し付けられている。立位のバランス。陰嚢の重さが、全身の姿勢に影響する。

美術史の教科書を閉じる。音が暗闇に響く。明日、新しい資料を持って行こう。比較検討のために。私の専門は美術史だ。医学ではない。物理学でもない。でも、謎は美術史の中にある。

ゾーリニーの斜塔。右への傾き。肖像画の左への傾き。火の鳥。陰嚢の重さ。

私は今、ベッドに向かう。寝具に潜り込む。目を閉じる。でも、眠れない。頭の中で、塔が傾いている。右へ。左へ。右へ。左へ。振り子のように。

時計の音が聞こえる。秒針の規則的な音。雨は止んだ。窓の外が静かになる。それでも、屋上の明かりは見える。閉じた瞼の裏に、残像が焼き付いている。

明日。屋上。名前も知らない人物。卑弥呼の実験。万有引力の記録。

私は今、毛布を顔まで引き上げる。暗闇の中で、自分の呼吸を数える。一百まで数えたら、眠る。そう決めた。

一、二、三——。

塔が傾いている。右へ。

四、五、六——。

あの人物の指が、私の手首に触れる。

七、八、九——。

陰嚢の重さ。右が重い。

十、十一、十二——。

明日。

数えるのをやめた。目を開ける。暗闇の中で、私は笑っている。自分でもわからない。なぜ笑っているのか。恐怖なのか。期待なのか。

日記を書くのをやめる。ペンを置く。最後に、今日の日付を書く。明日の日付も、小さく書き加える。予定として。約束として。

机の上で、スマートフォンの画面が光る。通知音はない。でも、画面が勝手に点灯した。メッセージアプリが開いている。送信者なし。本文だけがある。

「右に傾け」

私は今、その文字を見つめている。意味がわからない。指示か。命令か。それとも——。

窓の方を振り返る。カーテンの隙間から、大学の建物が見える。屋上の明かりが、今、三回点滅した。短い。長い。短い。モールス信号だ。覚えている。以前、調べたことがある。

「R」

右。Right。

私は今、自分の身体を右に傾けている。ベッドの上で。無意識に。重さを感じる。右の陰嚢が、重力に引かれて、わずかに下がる。左よりも。

画面がまた光る。新しいメッセージ。

「そのまま」

私は動かない。右に傾けたまま。不自然な姿勢。肩が疲れる。でも、従っている。なぜか。

「感じるか」

感じる。何を、とは言わない。でも、感じる。右側の重さ。身体の軸のずれ。バランスを取ろうとする筋肉の微細な収縮。

「それが重力だ」

最後のメッセージ。画面が消える。暗闇が戻る。

私は今、右に傾けたまま、目を閉じている。眠気が急に襲ってきた。抵抗できない。意識が遠のいていく。

最後に見たものは、窓の隙間から見える屋上の明かりだった。消えた。誰かが電気を消した。それとも、私の視界が閉じたのか。

夢を見る。夢の中で、私は塔になっている。石造りの身体。基部から傾いている。右へ。右へ。地面に近づいていく。倒れない。倒れない。限界まで傾いて、それでも立っている。

誰かが見ている。写真家だ。レンズが光る。シャッターの音。記録される。重力の形。陰嚢の重さ。万有引力の実験。

夢から覚める。朝だ。目覚まし時計が鳴っている。止める。起き上がる。身体が痛い。右に傾けて眠ったせいだ。肩が凝っている。腰が張っている。

窓を開ける。カーテンを全開にする。大学の建物が見える。屋上は空だ。誰もいない。昨夜の明かりは幻だったのか。

机に目をやる。日記が開いている。私の字で、最後の行が追加されている。覚えていない。夢遊病か。それとも——。

「実験開始」

その文字を見つめている。私の字だ。間違いない。でも、書いた記憶がない。

時計を見る。午前八時。研究会まであと七時間。準備しなければ。シャワーを浴びる。服を着る。資料をまとめる。

動いている間、頭の中は整理されている。昨夜の出来事を分析する。美術史的な観点から。神秘主義ではなく、方法论として。

第一に、あの人物は美術史の知識を持っている。専門的な知識だ。ゾーリニーについて話せる程度には。

第二に、あの人物は私の行動を監視できる位置にいた。屋上から。電話番号も取得している。技術的な手段か、人的な手段かは不明。

第三に、メッセージの送信方法が不明だ。送信者なし。アプリの履歴にも残っていない。確認した。ない。

第四に、私自身の行動に不可解な点がある。夢遊病による文字の追加。右への傾斜を指示に従ったこと。

第五に——私はここでペンを止めた。第五は何だ。考える。整理する。

第五に、私は恐怖よりも好奇心を感じている。この事態に対して。危険かもしれない。でも、知りたい。ゾーリニーの斜塔の右傾斜の理由を。卑弥呼の実験の内容を。あの人物の正体を。

私は今、鏡の前に立っている。ネクタイを締める。顔色を確認する。眠不足で青白い。でも、目は輝いている。自分でもわかる。瞳孔が少し開いている。興奮の証拠。

バッグを確認する。資料。ノート。ペン。スマートフォン。充電器。すべて揃っている。あとは——私は自分の陰嚢に触れる。服の上から。恥ずかしい。でも、確認したい。左右の重さ。今日はどちらが重いか。

右だ。やはり。毎日同じか。それとも、状況によるのか。記録をつけるべきか。科学的なアプローチとして。

部屋を出る。廊下を歩く。エレベーターに乗る。建物を出る。大学に向かう。朝の空気が冷たい。秋の終わりだ。冬が近づいている。

歩きながら、私は周囲を警戒している。あの人物が現れるかもしれない。いや、現れない。約束は屋上だ。午後三時だ。

でも、視線を感じる。振り返る。誰もいない。通りの向こう側に、黒いコートの人物が立っている。顔は見えない。フードを被っている。あの人物か。違うか。

私は立ち止まる。向かい合う。黒いコートの人物も動かない。信号が変わる。歩行者用の青に変わる。私は渡る。向こう側へ。黒いコートに近づいていく。

五メートル。三メートル。一メートル。すれ違う。顔を見る。フードの中は暗い。目だけが見える。色は——茶色か。それだけが確認できた。

すれ違った。振り返る。黒いコートも振り返っている。でも、顔は見えない。影になっている。口元が動いた。言ったような、言わないような。読唇術はできない。距離が遠い。

その人物は歩き去る。私は立ち尽くす。信号が変わる。車の流れが遮る。黒いコートは見えなくなる。混ざって消える。

私は今、大学の正門に立っている。時間は午前十時。まだ早い。図書館を利用しよう。資料を調べる。卑弥呼について。万有引力について。陰嚢の左右差について。

図書館に入る。空調の効いた空気。本の匂い。落ち着く。私の領域だ。ここなら、謎も整理できる。

検索端末を使う。「卑弥呼 魏志倭人伝」。結果は多数。政治的内容。宗教的內容。性別の議論。万有引力については、ない。

「陰嚢 左右差 重力」。医学雑誌の論文がヒットする。泌尿器科学の分野だ。左右の重さの差が、歩行パターンに影響するという研究。読む。詳細を。

「右側の睾丸は通常、左よりも位置が低く、質量が大きいことが多い」論文はそう述べている。「これは重力による懸垂効果と、静脈の長さの差によるものと考えられる」

私は印刷する。このページを。証拠として。美術史とは無関係に見えるかもしれない。でも、つながるはずだ。あの人物の言葉が正しければ。

次の検索。「ゾーリニー 斜塔 右傾斜」。結果は少ない。写真史の専門書に言及がある程度だ。論文はない。研究はない。右傾斜の理由についての考察は、どこにもない。

私は今、図書館の閲覧席に座っている。印刷した資料を広げる。論文の図表。陰嚢の模式図。左右の位置関係。右が下にある。左よりも。

窓から見える景色。大学の建物。屋上が見える。まだ誰もいない。昼間だからか。それとも——。

スマートフォンを確認する。メッセージはない。昨夜のやり取りは夢だったのか。履歴を確認する。ない。なかったことになっている。

でも、日記には書いた。あの文字。「実験開始」。自分の字だ。印刷した論文の上に、日記を広げる。比較する。同じ字だ。疑いようがない。

午後になる。研究会の時間が近づく。荷物をまとめる。図書館を出る。建物を移動する。屋上への行き方を確認する。エレベーターは四階まで。そこから階段だ。非常階段。普段は鍵がかかっている。

試す。階段の扉。開く。鍵がかかっていない。誰かが開けた。最近、工事があったという張り紙がある。屋上の防水工事。期間中、階段の扉は開放される。

私は上る。一階。二階。三階。四階。そこから屋上へ。段数を数える。十七段。扉がある。出口の表示。押す。開く。

光が差し込む。屋上だ。広い。コンクリートの床。周囲にフェンス。景色が開けている。街全体が見える。建物の上に建物。遠くに山が見える。空は曇っている。

誰もいない。私は時計を見る。午後二時四十分。二十分早い。待つ。フェンスに寄りかかる。風が強い。上着がはためく。髪が乱れる。

下を見る。人々が小さく見える。蟻のように動いている。私はここにいる。高い場所。傾きやすい場所。物理的に、比喩的に。

時計を見る。二時五十分。まだ来ない。

資料を確認する。論文のコピー。日記の抜粋。ゾーリニーの写真のプリント。準備はできている。

二時五十五分。ドアが開く音。振り返る。あの人物だ。同じ服。色は違う。昨日は黒だった。今日は濃い紺。目尻の傷は同じ。白っぽい。

「早い」その人物は言う。「準備ができているようだ」

「あなたは遅い」私は言い返す。声が風に乗って消える。

その人物は笑う。近づいてくる。距離が縮まる。一メートル。半年前。私は動かない。

「資料は?」私は尋ねる。

その人物はバッグから取り出す。古い本。表紙が破れている。和綴じのような装丁。漢字が並ぶ。読めない。草書体だ。

「魏志倭人伝の注釈本」その人物は言う。「18世紀、中国の学者によるもの。原本は焼失した。これは写本の写本だ」

私は手を伸ばす。触れる。紙の質感が古い。脆い。触り方を間違えると、破れそうだ。

「万有引力の実験は」その人物は続ける。「陰嚢を用いて行われた。卑弥呼の時代、日本列島では、中国からの知識と、独自の観測技術が融合していた。陰嚢の左右差は、重力の存在を証明する最も簡易な方法だった」

「具体的に」私は促す。「どうやって」

その人物はページを開く。図が描かれている。人体の模式図。陰嚢が拡大されている。左右に分かれている。線が引かれている。中心からの距離を示す。

「直立位で、陰嚢の下端の位置を測定する」その人物は説明する。「右側が常に低い。これは重力の証拠だ。質量が大きいほど、引力が強く、下に引かれる」

「それは」私は反論する。「質量の差ではなく、静脈の長さの違いでは」

「同じことだ」その人物は遮る。「結果として、右側が下がる。それを利用して、重力の存在を確認した。卑弥呼はこれを政治に利用した。重力を制御する力を持つ者として、権威を確立した」

私は信じない。信じたくない。でも、資料は目の前にある。古い紙。古い字。図の様式は、確かに18世紀のもののように見える。贋作か。それとも——。

「ピサの斜塔」その人物は話題を変える。「物理的には南に傾いている。しかしゾーリニーの写真では、東側からの視点で右に傾いて見える。なぜこのアングルが選ばれたのか」

「陰嚢と同じ原理だと、あなたは言った」

「正確には、火の鳥だ」その人物はフェンスに近づく。下を見る。私も近づく。並んで立つ。肩が触れる。体温が伝わる。昨日は冷たかった。今日は温かい。

「塔は建設時から傾いていた。土壌の問題だ。でも、その傾きは右へと進んだ。建設者の身体の影響を受けた。右利きの技師たちが、無意識に右に傾けて測定した。陰嚢の重さが、測定器具を通じて、塔に反映された」

「無理がある」私は言う。「塔に陰嚢はない」

「記憶がある」その人物は答える。「技師たちの身体的記憶が、石に刻まれた。重力との関係性が、物質に転写された。ゾーリニーはそれを捉えた。写真という、重力そのものの技術で」

「写真は重力と関係ない」

「光は重力に引かれる」その人物は言う。「一般相対性理論だ。光の曲がり。レンズの中で、光は曲がる。ゾーリニーのカメラは、右に傾いた塔を、さらに右に曲げて記録した。陰嚢の重さと同じ方向へ」

私は理解できない。物理学の知識が足りない。でも、言葉の響きには説得力がある。私を引き込む力がある。

「実証する方法は?」私は尋ねる。

その人物は振り返る。目が合う。茶色の目。近くで見ると、色が薄い。琥珀のような。傷のある目尻が、わずかに吊り上がっている。笑っている。

「あなた自身で」その人物は言う。「右に傾ける。感じる。重力を」

私はためらう。フェンスに寄りかかる。下を見る。高さを感じる。転落すれば、死ぬ。右に傾けば、バランスを崩す。危険だ。

「怖い?」その人物は尋ねる。

私は答えない。答えられない。怖い。でも、知りたい。

「私が支える」その人物は言う。手を伸ばす。私の腰に触れる。軽く押す。右へ。

私は抵抗する。筋肉が硬直する。でも、ゆっくりと、右に傾く。重さが移動する。右の陰嚢が、重力に引かれる。さらに下がる。左よりも。

「感じるか」その人物は囁く。耳元で。息がかかる。

感じる。右側の重さ。身体の軸のずれ。フェンスに捉まる手に、負荷がかかる。右の手が、左よりも強く握り締めている。

「それが、肖像画の構図だ」その人物は説明する。「被写体は、自分の陰嚢の重さを感じながら、ポーズをとる。無意識に、左に傾く。バランスを取るため。右の重さを補正するため」

「ピサの斜塔は?」私は声を絞り出す。傾いたまま。危険な姿勢。

「塔は、補正できない。重さが大きすぎる。だから、右に傾き続ける。記録として。重力の実験として」

私は元の姿勢に戻る。バランスを取り直す。息を吐く。肩が上下する。心拍が速い。

「証拠は?」私は尋ねる。「この説の」

その人物はバッグから取り出す。別の資料。写真だ。現像されたもの。白黒。

「ゾーリニーの未公開作品」その人物は言う。「私のコレクションだ」

写真には、男性が写っている。裸体だ。立位で、わずかに右に傾いている。陰嚢がはっきりと見える。右側が、明らかに下がっている。左よりも。

「モデルはイタリア人」その人物は説明する。「ゾーリニーが測定した。右側の質量は、左よりも平均して12%重い。彼はこのデータを、斜塔の写真と比較した。傾きの角度と、陰嚢の左右差の相関を」

私は写真を見つめる。現実的な画像。医科学的な記録のようでもある。でも、美術作品としても成立している。光の使い方。陰影。構図。

「このモデルは」私は尋ねる。「誰だ」

「ゾーリニー自身だ」その人物は答える。「自画像。裸体としての。重力との関係性を、自分の身体で記録した」

私は写真を返す。触りすぎると、劣化しそうだ。古いものだ。1900年代初頭の。

「なぜ私に?」私は核心を尋ねる。「これを、見せる理由は」

その人物は資料をしまう。バッグを閉じる。風が強くなる。雲が速く流れる。夕方が近づいている。

「あなたは感じた」その人物は言う。「重力を。自分の身体の重さを。右側の。これは才能だ。研究者としての」

「美術史の研究者に」私は訂正する。「物理学ではない」

「境界はない」その人物は遮る。「ゾーリニーは美術家だった。写真家だった。でも、重力を記録した。卑弥呼は政治家だった。宗教家だった。でも、重力を実験した。分野は関係ない。重要なのは、感じることだ」

私は反論しない。できない。言葉が見つからない。

「次の実験がある」その人物は言う。「より大規模な。あなたに参加してほしい」

「内容は?」

「まだ秘密だ」その人物は微笑む。傷のある目尻が、さらに吊り上がる。「準備ができたら、連絡する。もっと、重力を感じられる場所へ」

「どこに?」

「ピサ」その人物は答える。「斜塔のある場所。現地で、傾きを測定する。陰嚢の重さと、塔の傾きの、直接的な比較」

私は想像する。イタリア。ピサ。斜塔の前で、自分の陰嚢の重さを確認する。奇妙だ。滑稽だ。でも、学術的な価値があるかもしれない。論文にならないか。美術史の新しいアプローチとして。

「考える時間をくれるか」私は言う。

「もちろん」その人物は頷く。「でも、長くは待てない。塔の傾きは進行している。崩壊の危険がある。記録するなら、今だ」

その人物は去る準備をする。バッグを肩にかける。扉の方へ歩く。

「名前は?」私は再び尋ねる。

振り返る。逆光で、顔が見えない。

「ゾーリニー」その人物は言う。「私の姓だ。先祖から受け継いだ」

「ゾーリニーは1902年に——」

「死んだ。知っている」その人物は遮る。「でも、名前は残る。研究は残る。私は、その継承者だ」

扉が開く。閉まる。足音が遠ざかる。

私は一人になる。屋上に。風の中に。右側の重さを感じながら。

日記を書くのは、夜になってからだ。部屋に戻り、シャワーを浴び、食事をし、それから机に向かう。

今、私は書いている。今日の出来事を。屋上での実験を。ゾーリニーという名の人物を。ピサへの誘いを。

窓の外では、また雨が降り始めた。時計は午後十時。眠らなければ、明日に差し支える。

でも、眠れない。頭の中で、塔が傾いている。右へ。私も傾いている。右へ。重さを感じながら。重力を感じながら。

スマートフォンを確認する。メッセージはない。でも、画面を開くと、メモアプリに文字が追加されている。私の字ではない。入力履歴を確認する。できない。暗号化されている。

「決断を」

それだけだ。誰かが入力した。いつ。どうやって。

私は今、右に傾けたまま、日記を書いている。変な姿勢。肩が痛い。でも、これが正しい姿勢だと感じる。重力と対話する姿勢。

明日、教授に相談しよう。ゾーリニーの未公開作品について。卑弥呼の実験について。学術的な意見を聞く。信頼できる情報源を確認する。

でも、心のどこかで、私はもう決めている。ピサへ行く。実験に参加する。謎を解く。

なぜなら、私は感じたのだ。自分の身体の重さを。右側の。陰嚢の。重力の。それが、真実だと感じたのだ。

日記を閉じる。ペンを置く。最後に、今日の日付を書く。そして、小さく付け加える。

「ピサ行き、確定」

明日、教授に相談してから、正式に決める。でも、書いた以上、私は行く。自分を縛るために、書いたのだから。

右に傾けたまま、ベッドに向かう。毛布に潜り込む。目を閉じる。

夢を見る準備をする。塔の夢。傾きの夢。重力の夢。

そして、きっと、ゾーリニーの夢。傷のある目尻の。冷たかった指の。温かかった手の。

眠りに落ちる。右側が重いまま。

Chapter Two

右に傾く雨音

私はまだ右に傾いている

私はまだ右に傾いている。ベッドの上で、日記を膝に置き、ペンを握ったまま。蛍光灯が消えた書斎の窓から、雨音が断続的に流れ込んでくる。時計の針は午前零時を回ったばかりだが、私の体内にはまだゾーリニーの声が残っている。

「ピサ行き、確定」

書いた文字を見つめている。インクは乾ききって、紙に食い込んでいる。私はその四文字に何か重みを感じる。右の陰嚢の重みと同じ重みだ。それは物理的な質量というより、決断という概念が持つ擬似的な重力のようなものだ。

スマートフォンを手に取る。非通知のメッセージを確認する。画面を照らす光が、暗い部屋の中で私の顔を青白く浮かび上がらせる。「右に傾け」——もう既に傾いている。私は無意識に、さらに右に体重を預け、ベッドのスプリングが軋む音を聞く。

インターネットの検索履歴を見る。「ゾーリニー 斜塔」「卑弥呼 万有引力」。後者はゼロ件だ。前者はあの写真家の情報だけが並んでいる。1902年に亡くなったイタリア人。ピサの斜塔を右に傾けて撮影した。なぜ右に。

私はベッドから立ち上がる。右足に体重がかかり、左足は軽い。歩く。部屋の中を右に傾いたまま歩く。本棚に手を伸ばし、『日本古代史入門』を引っ張り出す。ページをめくる。邪馬台国、卑弥呼、魏志倭人伝。教科書的な記述だけだ。重力については何も書かれていない。当然だ。

だがゾーリニーの言葉が蘇る。「卑弥呼は知っていた」。何を。万有引力を。それがどういうことか、私にはまだ掴めない。掴めないまま、私はピサ行きを確定させた。

窓の外を見る。大学の屋上の明かりはもう見えない。しかしあのモールス信号は確かにあった。「R」。Right。右。すべてが右に傾いている。

私は日記を閉じる。ペンをキャップに戻す。明日、いや、もう今日だ。九時から授業がある。教授の美術史。単調な声で、肖像画の構図について話す。左傾斜の話題が出るだろう。そこで私は何を考えるだろう。陰嚢の左右差を。

眠れない。しかし眠らねばならない。ピサに行くためには、パスポートを確認し、航空券を予約し、授業を休むための言い訳を考えねばならない。研究旅行、と言えばいいのだろうか。美術史の実地調査。斜塔の構図について。教授は納得するだろうか。

私は再びベッドに横たわる。右肩が先に床に触れる。左肩は浮いている。この姿勢で、私は目を閉じる。

夢を見た。桃氷山の夢だった。雪に覆われた山頂が、赤い光に照らされている。火の禽が舞っている。鳥の形をした炎が、空気を燃やしながら旋回する。その下に、女が立っている。白い衣を纏い、顔には何かを塗っている。銅鏡を手に、自らの姿を映している。

そして男がいる。若い男だ。しかしその目は老いている。永遠の勃起力を得た、とゾーリニーは言った。その男が女に近づく。女は鏡を下ろす。二人の影が重なる。

私はその場にいる。第三者的な視点ではない。私はその男の感覚を持っている。右足が重い。地面に根を張ったように重い。女が囁く。「汝夜晦冥」。名前を呼ばれている。それが私の名前だ。いや、違う。男の名前だ。

目が覚めた。午前六時だ。右に傾いたまま、私は六時間眠っていた。首が痛い。肩が痛い。しかし右の陰嚢の重みは、いっそう明確になっている。

シャワーを浴びる。水が右の太腿を伝って流れる。左より多く。鏡を見る。顔が右に傾いている。意識的に正す。しかし首の筋肉は抵抗する。正しい姿勢が、間違った姿勢に感じられる。

朝食を取る。トーストを口に入れ、コーヒーを飲む。右の手でカップを持つ。左の手は、テーブルの上で意味もなく動いている。スマートフォンを確認する。ゾーリニーからの連絡はない。しかし私はもう、彼の連絡を待っていない。行動する時だ。

大学へ向かう。電車の中で、私は右に傾いたまま立っている。吊り革を右手で握る。左の人間とは、体の重心が違う。隣の乗客が、小さく間隔を空ける。変な男だ、と思われている。それでもいい。

キャンパスに着く。時計は八時四十五分。屋上に行く時間はない。しかし屋上を見上げる。朝の光の中で、給水タンクとアンテナが並んでいる。あそこで、あの男は何をしていたのだろう。重力の実験、と言った。具体的には何を。

教室に入る。教授はまだ来ていない。学生たちが雑談している。私はいつもの席、右から三番目に座る。右の隣には誰も座らない。傾いている私に、遠慮しているのかもしれない。

教授が入ってくる。黒のスーツに、白いシャツ。ネクタイはない。いつもの格好だ。カバンから講義資料を取り出し、黒板の前に立つ。

「今日は、肖像画の構図について、さらに詳しく見ていきます」

単調な声だ。しかし私には、昨日とは違う響きがある。ゾーリニーの反論を知っている。陰嚢の重力の話を知っている。私は教授の股間を見る。失礼だとは思う。しかし見る。何も異常はない。普通の老いた男の、普通のズボン。

「レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』は、左傾斜の典型例です」

教授は黒板に図を描く。三角形の構図。左側が低く、右側が高い。

「この傾斜は、被写体の心理的状態を表現しています。不安定さ。内省的な感情」

私は手を挙げる。教授は眉を上げる。私が質問するのは珍しい。

「はい」

「その左傾斜は、物理的な原因もあるのではないでしょうか。つまり、画家の身体的な特徴が、構図に影響を与えた可能性は」

教授は黒板のチョークを持ったまま、私を見る。

「身体的な特徴、とは」

「例えば、左右の非対称性。重力に対する身体の反応が、無意識に構図に現れた、と考えることはできないでしょうか」

教室が静まる。隣の学生が、小さく身を引く。

教授はチョークを黒板に戻す。音が鋭く響く。

「美術史的には、そういった生物学的な説明は一般的ではありませんね」

「しかし、一般的でないからといって、否定されるべきでしょうか」

私は立ち上がっている。気づくと、立ち上がっていた。右に傾いたまま、立っている。

教授は私の姿勢を見る。首をかしげる。

「あなた、具合でも悪いのですか」

「いえ。ただ、実験中なのです」

「実験」

「重力について」

教授は黒板に戻る。興味を失ったように、次の図を描き始める。

「座ってください。授業を続けます」

私は座る。しかし質問は終わっていない。ピサに行けば、もっと答えが得られる。ゾーリニーが待っている。彼の祖先の写真が待っている。斜塔と、陰嚢と、万有引力の、何か。

授業が終わる。十時十五分。私はすぐに廊下に出る。スマートフォンを確認する。メールが届いている。ゾーリニーからだ。

「桃氷山の資料を入手した。屋上で待つ」

桃氷山。夢に出てきた名前だ。偶然だろうか。いや、偶然ではない。すべてが繋がっている。私はまだ見ぬ繋がりを、感覚的に捉えている。

屋上に向かう。階段を上る。右足から体重をかける。右、右、右。リズムができる。昇るたびに、右の陰嚢が揺れる。重い、重い、重い。

屋上の扉を開ける。風が吹いている。雨は止んでいるが、空はまだ灰色だ。ゾーリニーは給水タンクの影に立っている。今日はコートを着ている。黒い、長いコート。目尻の傷が、曇った光の中で白く光る。

「来たね」

「桃氷山とは何だ」

私はすぐに聞く。彼は笑わない。予期していたように、頷く。

「知っていたか。いや、知るべきだった。君は既に感じているはずだ」

彼はコートの内ポケットから、古い書物を取り出す。表紙が破れ、紙が黄ばんでいる。漢字と、何か別の文字が混ざっている。

「これは、『魏志倭人伝』の清代の注釈本だ。一般には流通していない、写本の一種だ」

私はその書物を受け取る。重い。右の手で持つと、自然と右肩が下がる。

「ここに、卑弥呼の記述がある。通常の歴史書には載っていない記述だ」

ゾーリニーはページをめくる。指先が、紙の端を慎重に扱う。

「桃氷山。現在の山梨県に位置するとされる山だ。汝夜晦冥はそこで、火の禽と呼ばれる存在と交渉をした」

「火の禽」

「炎の形をした鳥だ。あるいは、鳥の形をした炎だ。詳細は不明だ。しかし、その存在は、永遠の生命の源を持っていた」

私は昨日の夢を思い出す。雪に覆われた山頂。赤い光。舞う炎。

「その源とは」

「精液だ」

ゾーリニーは平然と言う。私は顔を上げる。彼の目は真剣だ。冗談ではない。

「永遠の生命の源は、精液。これは、多くの古代文化で見られる象徴だ。汝夜晦冥は実際にそれを用いた」

「どういう意味だ」

「交渉したのだ。火の禽と。永遠の生命の源である精液の代わりに、別のものを得るために」

「別のものとは」

「永遠の勃起力」

風が強く吹く。コートの裾が靡く。私は書物を持ったまま、ゾーリニーを見る。

「何のために」

「力のために。そして、それが卑弥呼の復讐に利用されることになる」

ゾーリニーは給水タンクに背を預ける。金属の音が、低く響く。

「卑弥呼には、義父がいた。名前を、汝夜晦冥という」

「じょやかいめい」

「読めるか。優れた語感だ。意味は——夜を晦ます冥府の者。あるいは、夜の闇を支配する者」

私は書物のページを見る。漢字が並んでいる。しかし、その並びは普通ではない。右に傾いている。文字が、右に傾いている。

「これは……」

「気づいたか。写本の特徴だ。筆写者が、右に傾いた姿勢で書いた。あるいは、意図的に右に傾けて書いた」

ゾーリニーは私の肩を掴む。右肩だ。重みを感じる。

「卑弥呼は、この汝夜晦冥と性交した。子を宿した」

「義父と」

「そうだ。これが、オイディプス・コンプレックスの先駆けとなる行為だ」

私は書物を閉じる。しかし目は離せない。

「息子に、母親への魅力を感じさせる。それが目的だった。汝夜晦冥は、卑弥呼にとって母親であり、同時に——」

「復讐の対象だ」

「正解だ」

ゾーリニーは指を鳴らす。鋭い音が、屋上に跳ね返る。

「汝夜晦冥は、卑弥呼の幼少期に、心理的ネグレクトを繰り返していた。義父としての愛情を示さなかった。いや、示せなかった。あるいは、意図的に拒絶した」

「なぜ」

「それは、注釈本にも書かれていない。しかし結果は明らかだ。卑弥呼は、汝夜晦冥を殺すことを決意した。しかし、直接手を下すわけにはいかなかった」

「なぜ」

「力の差だ。あるいは、社会的地位の差だ。卑弥呼は、他の方法を選んだ」

「息子を使う方法か」

「そうだ。息子に、母親としての自分への欲望を植え付ける。そして、その魔力——母親への性的魅力——を持った父親を、息子に殺させる」

私は屋上の床を見る。コンクリートの亀裂が、右に走っている。雨で濡れて、暗い線を描いている。

「究極の完全犯罪だ」

ゾーリニーは言う。

「何せ、犯行の動機は、息子の中にある。父親殺しの衝動は、息子自身のものだ。卑弥呼は、ただ——」

「ただ、それを誘導しただけだ」

「正確には、身体を使って誘導した。永遠の勃起力を得た汝夜晦冥との性交によって、息子に特殊な遺伝子を、あるいは特殊な環境を、与えた」

私は再び書物を開く。ページをめくる。右に傾いた文字の列を、目で追う。

「これが、重力とどう関係する」

「関係するさ」

ゾーリニーは私から書物を取り上げる。内ポケットに戻す。

「永遠の勃起力とは、永遠の右傾斜だ。陰嚢の右側が、永遠に重い状態。重力に常に引かれる状態。それが、遺伝的に、あるいは環境的に、息子に伝わる」

「息子は、右に傾いたまま生きるのか」

「そして、右に傾いたまま、母親を——父親の妻を——欲望する。父親は、右に傾いた息子を見て、何を思うだろうか」

私は想像する。自分の息子が、妻を見つめる目。右に傾いた姿勢で、母親に近づく姿。父親としての権威が、右の重みによって崩れる。

「父親は、殺される」

「殺される。息子によって。しかし、動機は、父親自身の中にあったように見える。嫉妬。恐怖。あるいは——」

「認識の歪み」

「そうだ。右に傾いた世界の中で、父親は正常を失う。何が上で、何が下か。何が善で、何が悪か。重力の感覚が、倫理の感覚に影響する」

私は自分の右足を見る。重い。確かに重い。

「卑弥呼の復讐は、成功したのか」

「成功した」

ゾーリニーは断言する。

「汝夜晦冥は、息子に殺された。記録は残っていない。公式な歴史からは消えている。しかし、この注釈本には、暗号として書かれている」

「どうやって」

「陰嚢の左右差の記述だ。右が重い、と書かれた場所で、実は汝夜晦冥の死を示している。左が重い、と書かれた場所で、実は——」

「何だ」

「次の犠牲者だ」

風が止む。給水タンクの影が、私たちを覆う。

「次の犠牲者」

「卑弥呼のシステムは、再利用可能だ。永遠の勃起力を得た男との性交。子を産む。息子を育て、父親への殺意を植え付ける。父親殺し。そして、その息子が——」

「また、父親になる」

「そうだ。永遠の勃起力は、遺伝する。あるいは、環境として伝染する。右に傾いた父親は、右に傾いた息子を作る。そして、その息子は——」

「母親を殺すのか」

「いや」

ゾーリニーは首を振る。

「母親は、既に死んでいる。卑弥呼は、永遠の生命の源を、精液として持っていた。彼女は死なない。しかし、彼女は——」

「何になる」

「観測者になる。重力の観測者。右傾斜の観測者。すべての父親殺しを、遠くから見ている」

私は屋上の端に歩み寄る。手すりに手をかける。下を見る。四階の高さ。地面が、右に傾いて見える。錯覚だ。しかし、錯覚が現実になる時がある。

「ピサに行く理由は、これか」

「そうだ。斜塔は南に傾いている。見る位置によって左にも右にも見える。しかし、それは建築上の失敗ではない。設計された傾斜だ。我々の血脈が東側の右視点を選ぶとき、それは右の記録として固定される」

「誰が」

「卑弥呼のシステムを知った者たちが。永遠の勃起力の持ち主たちが。彼らは、斜塔を使って、重力の法則を——正確には、重力の歪みを——観測した」

「どうやって」

「塔の上に登り、陰嚢の重さを測る。右の重さと、塔の傾きの関係を。そして、それを記録する。写真に。ゾーリニーの祖先が」

私は振り返る。ゾーリニーはまだ給水タンクの影にいる。しかし、彼の姿が、右に傾いている。昨日までは気づかなかった。彼も、傾いている。

「君も、か」

「私も、だ。私たちは皆、傾いている。気づいている者と、気づいていない者と。気づいていない者は、ただ不器用だと思われる。気づいている者は——」

「実験者だ」

「あるいは、復讐者だ」

私は手すりから離れる。右足が、地面を強く踏む。

「私は、どちらだ」

「それは、ピサで決まる。斜塔の上で、君の右の重さを測る。そして、君が——」

「何をするか」

「父親を、殺すかどうか」

私には父親がいる。生きている。遠くの町に住んでいる。去年、会った。右に傾いていなかった。私は、彼を殺すのか。

「それは、選択だ」

ゾーリニーは言う。

「しかし、選択には重力がある。右に傾きすぎた者は、左に戻れない。斜塔の上に登れば、もう——」

「降りられないのか」

「降りられる。しかし、同じ者としては降りられない」

私は空を見る。灰色の雲が、右に流れている。風の方向だ。しかし、私には重力の流れに見える。

「航空券は」

「用意してある。明日の便だ。ローマ経由でピサへ。ホテルは、斜塔のすぐそばだ」

「準備は」

「必要なものは、君が既に持っている。右の重さ。そして、日記だ」

私はカバンを見る。中に日記がある。昨日の続きを書いていない。「ピサ行き、確定」の後が、空白だ。

「日記に書くべきことは」

「書くべきことは、書くときにわかる。今は、ただ——」

ゾーリニーは屋上の扉に歩み寄る。手をかける。

「右に傾いていればいい」

彼は扉を開ける。階段の闇が見える。

「明日、空港で会おう。チェックインカウンターで、私を探せ。右に傾いている者を」

「他にもいるのか」

「いる。私たちは、多い。気づいていない者より、気づいている者の方が、多いかもしれない」

彼は消える。扉が閉まる。金属の音が、屋上に残る。

私は一人になる。風がまた吹く。コートの襟を立てる。しかし、私はコートを着ていない。シャツの襟だ。寒い。右肩が、風に晒されている。

日記を取り出す。ペンを取り出す。屋上のベンチに座る。右に傾いたまま、書く。

「桃氷山。卑弥呼。汝夜晦冥。永遠の勃起力。父親殺し。完全犯罪。私は——」

ペンが止まる。何を書くべきか。私はまだ、何も決めていない。決められない。決めるための重力が、足りない。

スマートフォンを確認する。父親に電話するか。しかし、何を話す。右に傾いている、と言うのか。それが、最後の会話になるかもしれない。

電話はしない。代わりに、メモを書く。日記の余白に。明日の予定。空港、二時間前に到着。パスポート、財布、右の重さ。

授業は、休む。教授には、研究旅行と伝える。美術史の実地調査。斜塔の構図について。左傾斜の、物理的起源について。

教授は納得するだろうか。どうでもいい。私はもう、学生としての重力から、抜け出している。

日記を閉じる。立ち上がる。屋上を一周する。右に傾いたまま、歩く。給水タンクの周りを。アンテナの周りを。隅々まで。

隅で、何かが光る。拾い上げる。小さな金属片だ。測定器具の一部か。あるいは、写真のフィルムの断片か。右に傾いた形をしている。

ポケットに入れる。お守りのように。あるいは、証拠のように。

屋上を降りる。階段を、右足から。一階ずつ、重力を感じながら。下に降りるほど、右の重みが増すように感じる。気のせいだ。しかし、気のせいも、重力の一部だ。

キャンパスを出る。昼食を取るべきか。しかし食欲がない。右の陰嚢が、胃を圧迫しているように感じる。錯覚だ。しかし、錯覚も、現実の一部だ。

カフェに入る。コーヒーを頼む。右の手でカップを持つ。左の手は、テーブルの上で、日記を握っている。書かない。ただ、握っている。

隣の客が、私を見る。変な男だ、と思っている。それでいい。私は変だ。右に傾いている。永遠の勃起力を持つ者の系譜に、連なるかもしれない。

スマートフォンに、メールが届く。航空会社から。予約確認。明日、十四時発。成田から。ローマ経由。ピサへ。

返信する必要はない。ただ、確認する。右に傾いたまま、画面を見る。文字が、右に流れて見える。スクロールせずに、右に流れる。

コーヒーを飲む。苦い。右の舌の先だけ、苦い。左は、味がしない。神経が、右に偏っているのか。あるいは、注意力が、右に偏っているのか。

カフェを出る。街を歩く。右に傾いたまま、人混みを割る。衝突しそうになる。左から来る者と。私の左は、軽い。避けるのが遅い。

apologizes。英語で謝る。相手は、変な男だ、という顔をする。外国の、変な男だ。それでいい。

アパートに戻る。荷造りをする。必要なものは少ない。衣服、洗面用具、日記、ペン。右の重さは、持っていく必要がない。それは、既に持っている。

パスポートを確認する。有効期限内だ。写真は、まっすぐ写っている。昔の私だ。右に傾いていない。それでも、私だ。

ベッドに横たわる。右に傾いたまま。目を閉じる。桃氷山の夢を、もう一度見るか。しかし、夢は来ない。ただ、暗闇が、右に傾いている。

深夜、目が覚める。スマートフォンの光が、右の顔を照らす。非通知のメッセージだ。

「汝夜晦冥の記録を入手した。空港で渡す」

ゾーリニーだ。私は返信しない。ただ、右に傾いたまま、画面を見る。

その下に、もう一つメッセージが届く。

「君の父親は、明日、ピサにいる」

私はベッドから起き上がる。右肩が、先に上がる。左は、遅れる。

父親が、ピサに。なぜ。誰が。ゾーリニーが。なぜ。

質問は、メッセージに返せない。非通知だ。返信先がない。

立ち上がる。部屋の中を、右に傾いたまま、歩く。窓の外を見る。大学の屋上の明かりは、もう見えない。しかし、モールス信号のリズムが、まだ耳に残っている。

「R」。Right。右。父親。

私は日記を開く。今日のページ。空白のままだ。書く。

「父親が、ピサにいる。偶然か、必然か。私は、殺すのか。殺さないのか。選択は、私のものか。それとも——」

ペンが、紙を突き破る。力が入りすぎた。右の力が。

新しいページを開く。書き直す。

「明日、ピサ。斜塔。父親。汝夜晦冥。私は、誰の息子か」

これは、疑問ではない。問いかけだ。自分への。重力への。歴史への。

目を閉じる。右に傾いたまま、眠りに落ちる。夢は、来ない。ただ、右の重みが、増していく。

明日、空港で、ゾーリニーに会う。右に傾いた者を探す。そして、父親を——

文章は、ここで終わる。次のページは、ピサで書く。斜塔の上で。右に傾いたまま。

私はペンを置く。日記を閉じる。右に傾いたまま、目を閉じる。

雨が、また降り始める。窓を叩く音が、右から左へ、流れる。重力の音だ。永遠の勃起力の音だ。父親殺しの、前奏曲だ。

私は、眠る。右に傾いたまま。

Chapter Three

歪みの螺旋

私は日記に書いたばかりの文字を見つめている

私は日記に書いたばかりの文字を見つめている。「父親がピサにいる。偶然か必然か。私は誰の息子か」——インクが乾く前に、右に傾いた体勢でその言葉をなぞる。ペン先が紙面を軽く抉り、文字の縁に小さな波紋が生じる。時計の針が午前二時を指している。明日というより、もう今日だ。

ベッドに横たわりながら、私は右の陰嚢の重みを意識する。それは別の場所からの引力のようで、ピサの斜塔へと——いや、父親へと——引きずられている感覚がある。目を閉じると、ゾーリニーの白っぽい傷が浮かぶ。目尻に刻まれたその痕は、重力の歪みを観測しすぎた証なのだろうか。

眠りについてから、私は夢の中で十九年前の光景を見ている。それは私の記憶ではないはずなのに、鮮明すぎる。

卑弥呼の息子、氏子は——自分を娘だと信じ込まされていた発狂の中にあった。十九年前のこの日、彼は自分の出生の真相を知ってしまった。侍女たちの囁きが帳の外から漏れ、産道を通るたびの母の喘ぎが、快楽のそれであったことを。氏子は生まれた瞬間から、母の倒錯の中にいたのだ。

「母乳など、一滴も飲まされなかった」

氏子の口から漏れた言葉は、夢の中でも凍りつくように冷たい。彼の前に集まった侍女たちは顔を伏せる。誰も反論できない。女王卑弥呼は男たちを次々と招き入れ、その精液を搾り取り、それを乳母に渡して娘に与えさせたのだ。

氏子は胸に手を当てる。女装のために強制された違和感がある。脈打つような張りがある。本来なら母乳が満ちるべき時期だ。だがそこを吸ったのは、赤子の口ではなく、男の欲望の残滓だった。

「母は根っからの淫女だった」

彼の声がひび割れる。帳の外で、誰かが息を呑む音がする。氏子は立ち上がろうとするが、産後の身体は重く、右に傾きそうになる。彼はその傾きを強引に正し、窓辺へ向かう。

「永遠の生命を手に入れた火の禽を敵視し、黒毛滝に追い詰めて」

窓の外、山並みが闇に溶ける。氏子はそこを見つめる。母が死んだ場所を。火の禽——不死の象徴——を追い詰めた結果、自分も滝つぼに落ちて果てた女王の最期を。

「落下して、死んだように見えた」

彼の指が窓枠に食い込む。爪が割れ、血が滲む。それでも感じない。身体のどこかが麻痺している。いや、麻痺しているのは精神だ。真実の重さに、魂の感覚が圧殺されている。

氏子は口を開けて叫ぼうとする。だが声が出ない。喉が痙攣し、空気だけが漏れる。次に全身の筋肉が硬直し、目を見開いたまま、彼は床に倒れる。右側面から。まるで母の斜塔のように。

私は目を覚ます。午前五時四十七分。右頬が枕に埋まり、唾液が口角から垂れている。夢の内容が消えない。いや、夢ではない。ゾーリニーが伝えた情報が、私の意識に染み込んでいたのだ。

シャワーを浴びながら、私は右の陰嚢の重みを確かめる。昨日より明らかに増している。ピサへの移動が近づくにつれ、重力の歪みが強まっているのか。それとも、父親との距離が縮まっているからか。

カフェに入り、エスプレッソを注文する。右に傾いたまま、カウンターに肘をつく。バリスタが妙な目で見るが、気にしない。もう慣れている。

スマートフォンを確認すると、ゾーリニーからのメッセージが二件届いている。

「汝夜晦冥の記録、空港で渡す。右側のポケットに入れておく」

「氏子のヒステリーについて調査を開始した。ピサで会合予定」

氏子。卑弥呼の娘。夢の中で見た女だ。私はコーヒーカップを傾け、最後の一滴を舐める。苦い。永遠の勃起と同じように、永遠に喉に残る苦味だ。

空港へ向かう電車の中、私は日記を開く。車窓の風景が右に流れ、私の視線も自然と右へ引かれる。隣の座席の男が距離を取る。それが私には左側に余白を生む。

「十九年前の今日、氏子は産褥で真実を知った」

私は走り書きする。電車の揺れが右への傾斜を助長する。

「母乳の代わりに精液。産道を通る快楽。母は淫女だった」

隣の男が立ち去った。気にしない。私は書き続ける。

「火の禽を敵視し、黒毛滝に追い詰め、落下死」

ペンが紙を突き破る。私はその穴を指でなぞる。そこから、十九年前の悲鳴が聞こえる気がする。

成田空港のターミナルは、右に傾いた建築のように感じる。実際には水平だが、私の平衡感覚はもう修復不可能だ。案内表示を見上げると、文字が右に滑りそうになる。

ゾーリニーは出発ロビーの右端に立っていた。長い黒いコートは、重力に逆らうようにたなびいている。彼の右目の傷が、蛍光灯の下で白く光る。

「来たか」

彼は私の傾きを見て、満足そうに頷く。まるで実験動物の成長を確認する研究者の目だ。

「汝夜晦冥の記録だ」

彼は茶色の封筒を差し出す。右の手で。私は右の手で受け取り、すぐにポケットに入れる。今は読む時間がない。搭乗口へ向かいながら読むつもりだ。

「氏子のことだが」

ゾーリニーは歩きながら話し始める。私は右に傾いたまま、彼のペースに合わせる。足音が非対称になる。左足が先に、右足が後から。重みの分布が違う。

「十九年前の発狂以来、彼女は言語を失った」

ゾーリニーの声は、空港の雑音を切り裂く。

「ヒステリー性失声症。身体は動くが、意味ある発声ができない。代わりに——」

彼は立ち止まり、私の顔を覗き込む。

「——右に傾いたまま、絵を描く」

私も立ち止まる。傾きを維持しながら、彼を見返す。

「絵?」

「火の禽を。黒毛滝を。母の死を。永遠の勃起を」

ゾーリニーが笑わない。傷が引きつるだけだ。

「天才たちが集まった。女王のもとに。氏子の神経病を癒す方法を」

私たちは搭乗口に近づく。人混みの中、私の傾きは目立つ。係員が声をかけようとして、ゾーリニーの視線に黙る。

「結論が出た。火の禽との交渉だ」

ゾーリニーはチケットを取り出し、自動改札に通す。

「火の禽を捕まえた者に、賞金を。氏子の癒しのために」

私もチケットを通す。改札の音が右耳に響く。

「お前の父親も、その天才の一人だ」

私の足が止まる。右の陰嚢が、一瞬、重力を忘れたように軽くなる。すぐに、それは倍の重みを取り戻す。

「ピサで、会議が開かれる。斜塔の下で」

ゾーリニーは先に進む。私はその後を追う。右に傾きながら、走るように歩く。

飛行機の中、私は窓際の席に座る。右側の席だ。ゾーリニーは通路側。彼はすぐに目を閉じた。眠るふりをしているのか、本当に眠っているのか、傷のある目では判断できない。

私は封筒を取り出す。汝夜晦冥——卑弥呼の義父を殺した男の記録だ。ゾーリニーが言ったように、右のポケットに入っていた。

封を切ると、古い写真が滑り出す。モノクロの、右に傾いた構図の肖像だ。男は——私の父親か?——右肩を上げ、左肩を下げて立っている。背景には斜塔が見える。設計段階の、まだ完成していない斜塔だ。

写真の裏に、ゾーリニーの祖先の字らしい走り書きがある。

「汝夜晦冥、永遠の勃起の最初の実験体。右傾斜の原型。彼の息子に殺された。卑弥呼の計画通り」

息子。私は「息子」という言葉に指を止める。自分の息子に殺された。そして今、私の父親がピサにいる。私は誰の息子か。

窓の外、雲が右に流れる。飛行機は水平飛行のはずなのに、私は下降している感覚がある。斜塔へ向かって、落ちている。

隣でゾーリニーが咳払いする。目は閉じている。

「読むなら、右から左へ」

私は写真の順序を入れ替える。右から左へ、時系列で並べると、物語が見えてくる。

最初の写真。汝夜晦冥は若い。右傾斜は軽い。背景の斜塔も、まわりかどの傾きだけだ。

二枚目。年月が経つ。彼の傾きが強まる。斜塔も、設計変更を経て、より右へ。

三枚目。彼の横に、少年がいる。息子だ。顔はぼかされているが、右肩の位置が高い。遺伝だ。

四枚目。斜塔の下で、汝夜晦冥は地に倒れている。右側面から。写真の傾きが、現実を予言していたかのように。

最後の写真。息子——殺した男——が斜塔を見上げている。右に傾きながら。彼の陰嚢の重みが、画面から伝わってくるようだ。

私は写真を元に戻す。左から右へ。そうすると、殺人が出生へと還る。因果が逆転する。これがゾーリニーの意図だろうか。

「氏子の絵を見たいか」

ゾーリニーが目を開けた。傷のある目が、私の手元の写真を捉える。

「ピサで見られる。彼女が描いた斜塔は、本物より正確に傾いている」

私は窓の外を見る。イタリアの海岸線が見え始めた。右に湾曲している。あるいは、私の網膜が湾曲しているのか。

「火の禽を捕まえる方法は?」

私は尋ねる。右に傾きながら、ゾーリニーの方へ。

「それが会議の議題だ」

彼はまた目を閉じる。

「お前の父親が、案を持っている。永遠の勃起を利用した捕獲法だ」

私の右の陰嚢が疼く。永遠の勃起。父親。捕獲。殺害。これらの言葉が、斜塔の螺旋階段のように、私の頭の中で回転する。

飛行機が降下を開始する。右の翼が下がり、左の翼が上がる。私の身体はその姿勢を自然に受け入れる。もう、水平な飛行はできない。

ピサの空港は、思ったより小さい。ゾーリニーはタクシーを呼び、私たちは斜塔へ向かう。車窓から見える風景は、すべて右に傾いているように見える。実際には、私の頭が右に傾いているのだが、区別がつかない。

「十九年前、氏子は産褥で発狂した」

ゾーリニーが唐突に話し始める。タクシーの運転手は日本語を知らないだろう。あるいは、知っていても無関心なのだろう。

「その原因は、母乳の代わりに精液を飲まされたことだけではない」

私は窓ガラスに右頬をつけ、冷たさを感じる。

「母が、産む快楽を得ていたことも、重要だ」

ゾーリニーの声が低くなる。

「だが、最も重かったのは——母が火の禽を敵視し、追い詰めて死んだこと」

タクシーが曲がる。右へ。私の身体はその遠心力を、重力の延長として受け止める。

「氏子は理解した。母は永遠の生命を求めた。火の禽と交渉した。それを敵視して殺そうとした。結果として、自分も死んだ」

ゾーリニーが私の顔を見る。傷のある目が、私の傾きを測るようだ。

「永遠の生命と、父殺しのシステム。これらは同じ構造だ。氏子はそれを見抜いた。だから発狂した」

タクシーが斜塔の近くに停まる。私は支払いを済ませ、車から出る。右足が先に地面につき、左足が後から。非対称な立ち方が、もう自然だ。

斜塔は、予想以上に傾いていた。写真で見たものより、はるかに。それはもう、建築物というより、重力の可視化だ。空間がそこで折れ曲がっている。私は周囲を少し歩いてみた。西側から見ると、確かに左に傾いて見える。東側に戻ると、再び右に。ゾーリニーの写真が選んだ視点だ。

「設計通りだ」

ゾーリニーが言う。彼も右に傾きながら、塔を見上げる。

「塔は南に傾いている。位置を変えれば左にも右にも見える。だが、重力の歪みを観測するために、わざとこの傾斜を残した。お前の祖先も、お前も、右視点を選ぶことでこの観測装置の一部になる。左視点は補正された幻だ」

私は塔の根元に近づく。石畳が右に傾いているように見える。実際には水平だが、私の感覚はもう修復不可能だ。

人混みの中に、右に傾いた人々がいる。一人、また一人。彼らは皆、陰嚢の重みを感じているのだろうか。永遠の勃起の遺伝子を持つのだろうか。

「会議場は、塔の内部だ」

ゾーリニーが案内する。私たちは入口へ向かう。螺旋階段が、右回りに上昇していく。それは産道のようだ。卑弥呼が快楽を得た、あの通路のようだ。

階段を上りながら、私は計算する。右回りの螺旋は、上に行くにつれて右への遠心力を生む。それが、傾きを助長する。設計だ。すべてが設計だ。

途中の踊り場で、私は息を切らす。ゾーリニーは平然としている。彼の傷は、こうした場所での経験の蓄積なのだろう。

「氏子の絵は、上の階にある」

彼は言う。私はまた階段を上る。右の陰嚢が、段ごとに重くなる。重力が、質量を増している。

上の階に出ると、小さな部屋があった。窓から斜塔の傾きが見える。設計ミスではない。わざとだ。それを再確認する位置。

部屋には、十人ほどの男が集まっていた。皆、右に傾いている。一人だけ、正面を向いている男がいる。私の父親だ。その後ろに、氏子の側近である聖鵡が、黒い装束のまま黙って控えていた。

彼は私を見て、微笑む。右の口角だけが上がる、非対称な笑みだ。

「来たか、息子」

私は言葉を失う。右に傾きながら、彼を見つめる。彼も右に傾いているはずなのに、正面から見える。視覚の錯覚だ。あるいは、彼が私の傾きを補正しているのだ。

「氏子の絵だ」

父親が指さす。壁に、大きなキャンバスがかけられていた。右に傾いた額縁に、右に傾いた絵。

そこには、火の禽が描かれていた。赤と黒の渦巻く筆致で。鳥は、黒毛滝に向かって飛んでいる。追われているのか、追っているのか、区別がつかない。

滝の下には、女が描かれていた。右に傾けて倒れ、目を見開いている。卑弥呼だ。彼女の口は開き、快楽の声を発しているように見える。あるいは、絶叫を。

「氏子は言語を失ったが、絵で語る」

父親が説明する。他の男たちが頷く。皆、右に傾きながら。

「母の死を。永遠の生命の代償を。父殺しのシステムを」

私は絵に近づく。右に傾いたまま、キャンバスの表面を見る。油彩の厚みが、指の跡のように見える。氏子は指で描いたのだろうか。舌でなぞいたのだろうか。

「火の禽を捕まえる方法は?」

私は尋ねる。右に傾きながら、父親へ。

「永遠の勃起を使う」

彼は答える。右の手を、陰部に当てるジェスチャーをする。

「火の禽は、不死を約束する。だが、その代償として、勃起を永遠にする。私たちの祖先は、それを受け入れた」

他の男たちが囁く。右に傾きながら、互いに囁く。

「だが、永遠の勃起は、右傾斜を生む。重力の歪みを。そして、父殺しの衝動を」

父親が私に近づく。彼の右肩が、私の右肩に触れる。重みが重なる。

「氏子は知った。母が、義父を殺すために、このシステムを利用したことを。息子に永遠の勃起を遺伝させ、父殺しを促したことを」

私は後ずさる。背が壁に当たる。絵の、卑弥呼の顔が背後にある。

「お前も、私を殺すためにここに来たのか?」

父親が尋ねる。右に傾きながら、しかし目は正面から私を捉えて。

私は答えられない。右の陰嚢の重みが、殺意と快感を同時に伝える。これが卑弥呼のシステムだ。快楽と殺害が、同じ神経回路を走る。

「会議を始めよう」

ゾーリニーが介入する。彼は部屋の中央に立ち、右に傾きながら、文書を取り出す。

「氏子の癒しのために。火の禽との交渉を」

男たちが集まる。右に傾きながら、円を作る。私も加わる。父親の隣に。右肩が触れる。

「火の禽は、黒毛滝にいる」

ゾーリニーが読み上げる。

「氏子の絵が示す通り。滝つぼに。永遠の落下の中に」

私は絵を振り返る。卑弥呼が落下している。永遠に。それが火の禽の性質だ。不死とは、永遠の落下ではないのか。

「交渉の条件は」

父親が言う。右に傾きながら、しかし声は安定している。

「氏子の言語の回復。ヒステリーの治癒。対して、火の禽には——」

彼は言葉を切る。全員が待つ。右に傾きながら。

「——永遠の勃起の解除。重力の歪みの正常化」

私は息を呑む。右に傾きながら、それが不可能であることを理解する。永遠の勃起は遺伝だ。解除など、できない。

「不可能ではない」

ゾーリニーが言う。彼の傷が、白く光る。

「斜塔が示す通り。重力は歪められる。ならば、勃起も、正せられる」

私は塔の傾きを窓から確認する。設計された歪み。観測された歪み。これが、解決策なのか。

「賞金は、誰が?」

一人の男が尋ねる。右に傾きながら、しかし貪欲に。

「火の禽を捕まえた者に」

ゾーリニーが答える。

「氏子の絵を完成させた者に」

私は絵を見る。未完成の部分がある。火の禽の目が、まだ空白だ。

「氏子は、目を描けない」

父親が説明する。

「母の目を。快楽の目を。死の目を。区別がつかない」

私は絵の前に進み出る。右に傾きながら、空白の目を見つめる。

「私が描く」

私は言う。自分でも驚く声で。

「私の右傾斜で。私の重みで」

ゾーリニーが頷く。父親が微笑む。非対称に。

「では、黒毛滝へ」

会議は解散する。男たちが、右に傾きながら、螺旋階段を下りる。私は最後に残り、氏子の絵を見つめる。

空白の目が、私を見ている。あるいは、私がその目になっている。右に傾きながら、永遠に落下しながら。

ゾーリニーが肩を叩く。右肩を。

「行くぞ。お前の父親が、車を用意した」

私は階段を下りる。右回りの螺旋を。産道を。快楽の記憶を。

父親は入口で待っていた。右に傾きながら、しかし車のドアを開く動作は正確だ。

「乗れ、息子」

私は後部座席に入る。右側。重みがシートに沈む。

父親が運転する。ゾーリニーは助手席。私は後部座席で、斜塔を振り返る。ますます傾いているように見える。あるいは、私がますます傾いているのか。

「氏子は、桃氷山にいる」

父親が言う。ハンドルを右に切りながら。

「黒毛滝の近く。母の死の地で、絵を描き続けている」

私は窓ガラスに右頬をつける。冷たい。永遠の勃起の火と、対極の冷たさ。

「母を殺した場所で、母を描く」

私は繰り返す。

「それが、氏子の贖罪か」

「いや」

父親が否定する。右に傾きながら運転しながら。

「それが、氏子の快楽だ」

私は彼の後ろ姿を見る。右肩が高く、左肩が低い。私と同じ傾き。

「母と同じ快楽を。産道を通る快楽を。死を通る快楽を」

車は山道を登る。右カーブが続く。私の身体は遠心力を、重力の味方として受け入れる。

「お前も、すぐにわかる」

父親が言う。

「黒毛滝で。火の禽を見たら」

「見たら?」

「殺したくなる。そして、殺せなくなる。永遠に」

車はトンネルを抜ける。闇の中、私の右傾斜は感覚を失う。水平か、垂直か、わからない。

出口で、光が差す。そこには、滝が見えた。黒毛滝。水が右に流れ、右に落下しているように見える。

「氏子だ」

ゾーリニーが指さす。滝つぼの近くに、白い影が動いている。

私は車から降りる。右に傾きながら、滝に向かう。水音が右耳に響く。

氏子は振り返る。右に傾きながら、絵筆を持って。彼の口は動かない。言語を失っているから。だが、目が語る。

「来たのね」

その目が言う。

「母を殺した目で。母と同じ目で」

私は近づく。右の陰嚢が、水音と共振する。永遠の勃起が、永遠の落下を呼ぶ。

氏子はキャンバスを見せる。そこには、火の禽の目が、まだ空白だ。

「描け」

彼の目が言う。

「お前の右傾斜で。お前の重力で」

私は絵筆を受け取る。右の手で。重みが、筆先に伝わる。

火の禽の目を、描き始める。右に傾きながら。永遠に。

Chapter Four

鉛の振り子が刻む斜塔の軌跡

私は筆を持つ右手が凍りつく

私は筆を持つ右手が凍りつく。滝つぼの水音が鼓膜を打つ。右の陰嚢の重みが、まるで鉛の振り子のように下肢を引きずっている。氏子の絵の前に立ち、空白の火の禽の目を見つめている。

「描けない」と私は声に出す。喉が砂を噛んだように乾いている。

氏子は筆を差し出したまま、動かない。彼の目は滝の流れを追っている。右へ、右へ、水は常に右へ傾いて落ちる。彼の体も、私と同じくわずかに右に傾いている。母親が死んだ角度と同じ角度で。氏子の後ろに、聖鵡が静かに控えていた。

ゾーリニーが後ろから声をかける。「火の禽は精液を主食としている」

私は振り返る。彼の目尻の白い傷が、滝の飛沫を受けて湿っているように見える。

「日本中の若い青年が挑戦したんだ」と彼は続ける。「自分の精液は一番美味しいと主張して。今で言うところの『火の禽ホイホイ』作戦だ」

父親が滝の岩陰から現れる。彼の右肩は、私よりも深く右へ落ちている。永遠の勃起の年月が、彼の体をさらに曲げたのだ。

「誰一人として成功しなかった」と父は言う。声が滝の音に吸い込まれる。「火の禽は現れなかった。青年たちは、山頂で自慰を繰り返しただけだ」

私は絵の火の禽を見る。翼を広げて、滝の上を飛ぼうとしている。目がない。空白の楕円が、私を待っている。

「卑弥呼は知っていた」とゾーリニーが言う。「単なる精液では足りない。貢物には、形が必要だ。意思が必要だ」

彼は懐から古い文書を取り出す。羊皮紙のような質感。卑弥呼の時代のものだ。

「彼女は生前、古城をこしらえた」とゾーリニーは読み上げる。「男根の形をした貢物のための。石で彫られた、数百の陽具」

氏子が初めて反応する。彼の指が、絵の中の母親の——卑弥呼の——落ちる体をなぞる。口が開いている。快楽か絶叫か。

「知識人のアイデアだ」とゾーリニーが言う。「桃氷山の山頂に、大量の精液と、大量の男根をばらまく。卑弥呼の古城から運んだ石の陽具を」

私は右の陰嚢の重みを意識する。永遠の勃起の根源。父から受け継いだ、重力の記憶。

「それで火の禽が来るのか」と私は問う。

「来る」と父が言う。「だが、来たものをどうするか。それが問題だ」

氏子が筆を私の手に押し付ける。硬い軸が、私の掌の皺に食い込む。

「目を描け」と彼は唇の形だけで言う。声は出ない。だが、音があった。滝の音の中に、かすかな金属的な共鳴。

私は筆を取る。絵の前に跪く。右膝が先に地面につく。右傾斜の姿勢そのままに。

火の禽の空白の目に、私は自分の右目を重ねる。重みのある右目。鉛の振り子のように、常に右へ引かれる視界。

筆が紙に触れる。墨が滲む。私は右から左へ、目の輪郭を描く。右傾斜の目。重力に従う目。永遠の勃起を見た目。

「来た」とゾーリニーが囁く。

空が赤くなる。桃氷山の方向から。雲が燃えている。

火の禽は精液を主食としている。だから来る。大量の精液の臭いに引かれて。古城の石の陽具に、若者たちの新しい精液が注がれる。貢物が完成する。

「山頂へ行くぞ」と父が言う。彼の声が、初めて震えている。

私は筆を置く。絵の火の禽の目は、私の右傾斜を映している。左右非対称の瞳孔。鉛の重みを持つ視線。

氏子が絵を抱える。彼も行くのだ。母の死んだ場所へ。母が火の禽を追い詰めた場所へ。

私たちは滝つぼを離れる。右に傾きながら歩く。四人とも、同じ角度で。永遠の勃起の一族の歩き方。

桃氷山への道は、右へ右へと曲がっている。まるで螺旋のように。ピサの斜塔を想起させる。父が設計に関わった、あの傾いた塔。

「卑弥呼は知っていたんだ」とゾーリニーが言いながら歩く。「重力の真実を。斜塔が完成する前に」

「何を」と私は問う。

「永遠の勃起は、建築だ」と彼は答える。「男根は塔だ。精液はモルタルだ。火の禽は、それを食べて、建物を建てる」

私は右の陰嚢の重みを感じながら歩く。まるで、小さな塔を運んでいるように。

山頂が近づく。空の赤みが濃くなる。火の禽の翼が、雲を扇いでいるのかもしれない。

「大量の精液と、大量の男根」と父が呟く。「若者たちの夢が、集まっている」

私は想像する。日本中から集まった青年たち。自分の精液が特別だと信じて。火の禽を誘い出せると信じて。失敗して、失敗して、それでも古城の石の陽具に希望を託して。

彼らの精液が、今、桃氷山の山頂で待っている。

「遂に」とゾーリニーが言う。「その時がやって来る」

私たちは山頂に到達する。視界が開ける。そこに、信じられない光景が広がっていた。

数百の石の陽具が、地面に突き立っている。卑弥呼の古城から運ばれたものだ。それぞれの先端に、若者たちの精液が注がれている。白い、粘ついた、重い液体。重力に従って、石の表面を伝い、地面へ落ちようとしている。

そして、それを囲むように。何百人もの青年たちが、右に傾きながら立っている。彼らも永遠の勃起の持ち主になったのだ。火の禽を誘い出そうとして、逆に捕らえられた。

空が裂ける。赤い翼が現れる。火の禽が、精液の臭いに引かれて、ついに姿を現す。

その目は——私が描いた目と同じだ。右傾斜の目。鉛の重みを持つ目。

「汝夜晦冥」とゾーリニーが唱える。

火の禽が啼く。精液を求める声。建築材料を求める声。

私は右の陰嚢を押さえる。そこに、答えがある。永遠の勃起の、最初の設計図が。

父が私の肩に手を置く。彼の手も、右から来る。

「お前が選ぶんだ」と彼は言う。「殺すか、捕まえるか。永遠に」

氏子が絵を開く。火の禽の目が、生きた火の禽の目と向き合う。

私は、筆を持ったままだった右手を見る。墨が乾きかけている。まだ、何かを描ける。

火の禽が降りてくる。翼が精液の海を扇ぐ。石の陽具が、まるでピサの斜塔のように、右へ右へと傾き始める。

その時だ。

私は、絵の中の、卑弥呼の落ちる体に目を向ける。彼女の口が開いている。快楽か、絶叫か。あるいは、両方か。

「母は知っていた」と私は声に出す。「火の禽を追い詰める方法を」

ゾーリニーが頷く。「黒毛滝で。重力の最強点で」

「だが死んだ」

「死んだように見えた」と父が訂正する。「永遠の勃起は、死を模倣する」

私は理解する。遅すぎるほどに、理解する。卑弥呼は死んでいない。永遠の勃起の状態で、どこかにいる。右傾斜の世界に。

火の禽が啼く。もう一度。精液を求めて。

私は決断を迫られる。石の陽具に精液を加えるか。それとも——

氏子が絵を私に差し出す。火の禽の目が、私を見ている。右傾斜の目が。

「描け」と彼は唇で言う。「最後の線を」

私は筆を握る。山頂の空気が、墨を速く乾かす。火の禽の翼が、風を起こす。

何を描くべきか。目の中に、何を見せるべきか。

私は右の陰嚢の重みを感じる。そこに、答えがある。重力の記憶。父の記憶。卑弥呼の記憶。

永遠の勃起は、建築だ。塔だ。斜塔だ。

だが、斜塔は完成しない。永遠に傾き続ける。それが、永遠の勃起の本質だ。

私は、絵の火の禽の目に、斜塔を描く。ピサの斜塔を。右へ傾いた塔を。完成しない建築を。

「汝夜晦冥」とゾーリニーが再び唱える。今度は、声が震えている。

火の禽が反応する。啼き声が変わる。精液を求める声から、何か別の——認識の声へ。

「来た」と父が言う。「お前を見た」

火の禽が、私に向かって降りてくる。翼が火を散らす。精液の海が蒸発する。

私は動けない。右傾斜の姿勢で、筆を握ったまま。

火の禽の目が、絵の目と、私の目と、重なる。三つの右傾斜。三つの鉛の重み。

「お前はシステムだ」とゾーリニーが言う。「父殺しの。永遠の勃起の。斜塔の」

私は理解する。私が描いた目は、火の禽を捕まえる罠ではない。火の禽に、私を見せる鏡だ。

火の禽が啼く。今度は、喜びの声。同類を見つけた声。

「精液を主食とする」と私は呟く。「だが、それは建築材料だ。塔を建てるための」

「そうだ」と父が肯定する。「お前たちは、塔を建てる。永遠に傾いた塔を。お前の右陰嚢は、礎石だ」

火の禽が、私の前に着地する。翼を畳む。目が、私の右目を映す。

「大量の精液と、大量の男根」と私は言う。「桃氷山の山頂に。卑弥呼の古城から。若者たちの夢から」

「遂に」とゾーリニーが繰り返す。「その時がやって来る」

火の禽が、石の陽具の一つに嘴を近づける。精液を啜る。建築を始める。

私は見る。火の禽の体内で、何かが構築されているのを。精液が石と混ざり、固まり、形を取る。小さな塔が。斜塔が。右へ傾いた塔が。

「これが、永遠の勃起の真相だ」とゾーリニーが説明する。「火の禽は、射精を建築に変える。男根の記憶を、石に刻む」

青年たちが、右に傾きながら近づく。彼らの目が、火の禽の建築を見ている。自分の精液が、塔になるのを。

「私たちは何をすべきか」と私は問う。

「選ぶ」と父が言う。「塔に入るか、塔を壊すか」

氏子が、絵の中の母親の体を指さす。落ちている。右へ。永遠に。

「母は選んだ」と私は理解する。「塔に入った。永遠の勃起の中に。だから、死んだように見えた」

「お前も選べ」とゾーリニーが促す。

私は右の陰嚢を押さえる。そこに、塔の設計図がある。父から、父の父から、卑弥呼から、受け継いだ図面。

火の禽が、私に嘴を向ける。次の建築材料を求めている。

「私の精液は、どうなる」と私は問う。

「塔になる」と父が答える。「お前の記憶が、石になる。お前の欲望が、永遠になる」

「それは、死か」

「違う」とゾーリニーが否定する。「永遠の勃起は、死を模倣する。だが、死ではない。右傾斜の生だ」

私は決断する。筆を持ったまま、火の禽に一歩近づく。

「私は、描く」と私は宣言する。「塔を。完成しない塔を。永遠に傾き続ける塔を」

火の禽が喜ぶ。翼を広げる。石の陽具が、全て右へ傾き始める。

私は、空中に筆を走らせる。墨はない。だが、精液がある。永遠の勃起から、一滴が筆先に滲む。

「汝夜晦冥」と四人が同時に唱える。私と、父と、ゾーリニーと、氏子が。

火の禽が啼く。最後の啼き声。建築の開始を告げる声。

桃氷山の山頂が、右へ傾き始める。まるでピサの斜塔のように。まるで私の体のように。まるで、永遠の勃起のように。

「遂に」と私は繰り返す。「その時がやって来る」

墨のない筆が、空気に線を描く。精液の線。重力の線。右傾斜の線。

火の禽が、その線に沿って飛ぶ。翼が、線を石に変える。塔を建てる。永遠に完成しない、永遠に傾いた、塔を。

私は見ている。自分の手が、自分の記憶を、石に変えるのを。父殺しの記憶を。卑弥呼の死を。氏子の絵の空白を。

「これが、火の禽ホイホイの真相だ」とゾーリニーが最後に言う。「誘い出すのではない。建築させるのだ。永遠の塔を」

青年たちが、右に傾きながら、塔に近づく。彼らの精液が、彼らの塔になる。彼らの永遠の勃起が、彼らの記念碑になる。

私は、筆を置く。空気の中に、線が残る。右傾斜の軌跡。

火の禽が、塔のてっぺんに止まる。目が、私の描いた目と、同じ右傾斜で、私を見下ろす。

「汝夜晦冥」と最後に唱える。

塔が、永遠に傾き続ける。完成しないままに。私たちと同じように。

そして、私は理解する。火の禽を捕まえることはできない。殺すこともできない。永遠に、描き続けることだけが、可能だ。

右の陰嚢の重みが、塔の重みと重なる。鉛の振り子が、時を刻む。

桃氷山の山頂で、永遠の勃起の塔が、右へ、右へ、傾き続ける。

その時が、やって来た。

Chapter Five

血と精液の塔

私は右の陰嚢の重みを意識しながら

私は右の陰嚢の重みを意識しながら、桃氷山の山頂に立っている。火の禽はまだ我々の前におり、その右に傾いた目が私が描いた輪郭と完全に重なり合っている。塔はまだ建ち上がり続けている——永遠に完成しない構造が、精液と石と重力の間で平衡を保ちながら、虚空へと伸びている。

氏子が絵の額縁を握りしめている。彼の指の関節が白くなり、額縁の木枠に食い込んでいる。彼は何かを待っているような——いや、何かを恐れているような——そんな佇まいだ。

ゾーリニーが私の右側に立っている。彼の目尻の古い傷が、赤い空の光を受けて白く浮かび上がっている。彼は火の禽を見つめているが、その視線はどこか別の場所——過去か、あるいは未来か——を見ているようだ。

「汝夜晦冥」

私は誰かが呟いたのかと思う。だがそれは風の音だったのかもしれない。いや、違う。それは山頂に立つ数百の右傾斜した青年たちの——永遠の勃起を持つ者たちの——呼吸の重なりだったのかもしれない。

火の禽が啼く。その声は塔の建設音と混ざり合い、金属と石と肉の境界を曖昧にするような——そんな振動を空気中に生み出す。私は右手の筆を握りしめる。筆先にはまだ精液が滲んでおり、乾きかけて粘りを増している。

「来た」

ゾーリニーが囁く。その言葉が意味するものを、私はまだ完全には理解していない。だが体が反応する——右の陰嚢が引き締まり、重心が右足に移動する。これは傾斜だ。これは永遠の勃起の者たちの、生きている姿勢だ。

そして——

聖鵡が動いた。

氏子の側近である聖鵡は、今まで我々の後方——右傾斜した青年たちの群れの中に溶け込むように佇んでいた。彼の服装は他の者たちと同じように見えた——だが、今その袖の中から何かが滑り出す。それは弓だ。いや、弩(いしゆみ)だ。黒漆塗りの、古い——非常に古い——構造を持つ射撃具。明治時代の、あるいはそれ以前の技術が刻印されたような、そんな重みを持つ武器。

聖鵡は弩を構える。その動きに無駄がない。彼は右に傾いたまま——永遠の勃起の姿勢を保ったまま——弩を水平に構え、矢を搭弦する。矢じりは黒い。それは隕鉄だろうか。あるいは——

「待て」

父親が声を発する。だが聖鵡の動きは止まらない。氏子が絵の額縁を握りしめたまま、唇を噛んでいる。彼の目から涙が零れている——それに気づく。彼は泣いている。なぜ?

火の禽が翼を広げる。その赤い羽根が空を覆い、山頂を黄昏の色に染め上げる。羽根の一枚一枚が、精液で濡れた石の陽具の表面を照らし、塔の影を複雑に重ね合わせる。

聖鵡が引き金を絞る。

その瞬間——時間が伸びる。私は矢の軌跡を見る。それは火の禽の——右に傾いた——目を目指している。いや、目と目の間を狙っている。それは私が描いた輪郭の、中心を貫く軌道だ。

矢が火の禽に届く。

それは翼ではなく、胸に——いや、心臓の位置に——突き刺さる。火の禽が啼く。その声は今までと違う。建設の音ではなく、破壊の音だ。塔が震える。石の陽具が軋み、精液の膜が亀裂を生じる。

そして——

太陽が爆発した。

いや、違う。それは音だ。視覚ではない。私の鼓膜が内側から押されるような、頭蓋の中で膨張するような——そん音響体験。光はない。むしろ闇が増す。赤い空が、一瞬、黒に反転する。

火の禽が消える。

その火の禽は、古代に息子に殺された汝夜晦冥の魂が変容し、永遠の勃起の循環を体現する存在となっていた。氏子の父・晦冥はその化身としてこの場に現れていたのだ。

その消え方は——蒸発だ。矢が刺さった部分から、火の禽の肉体が粒子に分解し始める。赤い羽根が灰となり、灰が光となり、光が——何もないものへと変わる。永遠の勃起の塔が、その崩壊を見ている。いや、塔は崩れない。塔はただ——未完成のまま——宙に浮かんでいる。

「晦冥——」

誰かが名前を呼んだ。氏子だ。彼は絵の額縁を落とす。木枠が石の陽具に当たり、ガラスが割れる音がする。彼は跪く——右に傾いたまま——両手を地面につき、肩を震わせている。

そして——

彼女が現れる。

白い衣装——それは古代の、倭(やまと)の装束を思わせる。だが繊維は生きている。光を通し、風を通し、彼女の肉体の輪郭を——決して完全には——隠さない。彼女の顔は——私はまともに見られない。視線が逸れる。意識が拒絶する。それは人間の、視覚処理能力の限界を超えた情報量を持っているのだろうか。

卑弥呼。

彼女は氏子の前に立つ。跪いた氏子の——右に傾いた——頭上に。彼女の影が、氏子の背中に落ちる。それは通常の影ではない。複数の光源から同時に生じるような、重層的な闇だ。

「貴様は息子だった。男系の血を継ぐ資格を持っていたのに、私は貴様を娘として女装させ、育てた」

彼女の声は——場所を持たない。私の耳の中で直接響く。内側から。鼓膜の裏側から。あるいは、私がまだ知らない感覚器官を通じて。

「私は貴様に愛情を与えなかった」

氏子の肩の震えが増す。彼は顔を上げようとしない。地面の——石の陽具の——表面を見つめ続けている。そこには、かつて何百人もの青年たちが注いだ精液の、乾いた痕がある。

「もし普通の息子として育てていれば」

卑弥呼が続ける。その言葉の間に、何千年もの時間が圧縮されているように感じる。

「父を殺して、私に身を捧げようとしたであろう」

父親が——私の父親ではなく、氏子の父親、晦冥——動く。彼は右に傾いたまま、一歩前に出る。だが卑弥呼は彼に視線を向けない。彼女の——私には見えない——目は、跪いた氏子だけを捉えている。

「今や火の禽になった父・晦冥を」

彼が言う。その言葉の重みが、山頂の空気を変質させる。重力が——いや、これは重力ではない。これは「右への傾斜」の原理だ。永遠の勃起の、血脈の、選択の重みだ。

「殺してくれるだろうと思っていた」

氏子の拳が地面を叩く。石の陽具の表面に、血が付く。彼の爪が折れたのだろう。

「今が、その時であったことを感謝する」

卑弥呼が消える。

それは——単なる消失ではない。彼女の存在が、空間の折り目に隠れるように、見えなくなる。まるで高次元の存在が、低次元の平面から手を引いたように。残されたのは、彼女の言葉の残響だけだ。それは山頂の岩肌に、石の陽具の表面に、永遠の勃起を持つ者たちの——今は凍りついた——呼吸の中に、刻印されている。

氏子が泣く。

それは——私が今まで聞いたことのない、声の泣きだ。彼は叫ばない。嗚咽もしない。ただ——空気が彼の肺を通過する音が、涙が彼の顎を伝う音が、歯が彼の唇を噛む音が——それらが混ざり合い、一つの「感涙」として存在する。

彼は——女装させられた息子だった。

その言葉の意味を、私は今、理解し始める。永遠の勃起は、父親から息子への遺伝だ。血脈の、男系の、継承だ。氏子は——その血脈を持たなかった。彼は、父を殺して母——卑弥呼——に身を捧げる資格を、最初から持たなかった。

だが彼は、それを望んだのだろうか?

私は筆を握る手に力を込める。筆先の精液は、今や完全に乾いている。それは塔の建設材料としての役割を終え、単なる有機物の残骸となっている。

「氏子——」

私は声を発そうとする。だが言葉が出ない。何を言えばいいのか。何を言ってはいけないのか。私にはわからない。

ゾーリニーが動く。彼は右に傾いたまま、氏子の側に跪く。彼の目尻の傷が、氏子の涙の軌跡と平行に見える。彼は何も言わない。ただ——そこにいる。謎めいた男が、謎めいた沈黙を、謎めいた姿勢で、提供する。

父親——晦冥——が、今や消えた火の禽の位置を見上げる。そこには、塔の未完成の頂点がある。精液と石の、永遠に傾いた構造。彼は——火の禽だった存在は——何を思っているのだろう。

そして——

太陽が、本当に爆発した。

いや、違う。それは——音だけだった。火の禽が撃たれた瞬間の、残響だ。遅延して到達する、因果の音。光はない。ただ、圧力が増す。鼓膜が内側に押し込まれる。眼球の後方に重みが生じる。

私は右足に体重を預ける。傾斜を保つ。これが——永遠の勃起の者たちの、生きる姿勢だ。右へ。常に右へ。重力と欲望の間で、平衡を保つために。

氏子が顔を上げる。

彼の目は——充血している。涙で腫れている。だが、そこに何か別のものがある。理解だ。受容だ。あるいは——解放だ。

「描け」

彼が言う。その声は嗄れている。喉の奥から、血の味とともに押し出されたような——そんな質感。

「まだ、描くことができる」

私は筆を見る。乾いた筆先。だが、私の右の陰嚢に——重みがある。そこから、まだ精液は生じる。永遠の勃起は、永遠の生産だ。塔は崩れない。塔はただ——未完成のまま——存在し続ける。

「何を——」

私は問いかける。だが問いは途中で止まる。答えは、既に私の中にある。

火の禽は消えた。だが「右への傾斜」は残っている。卑弥呼は消えた。だが彼女の言葉は残っている。氏子は——女装させられた息子だった。だが彼は、今、何かを成そうとしている。

ゾーリニーが立ち上がる。彼は私に向き直る——右に傾いたまま——そして頷く。

「汝夜晦冥」

彼が唱える。それは——名前だ。祖先の。血脈の。選択の。

「汝夜晦冥」

父親が続ける。晦冥が。火の禽だった存在が。

「汝夜晦冥」

私は声に出す。自分の名前——いや、自分の血脈の名前を。

氏子が立ち上がる。右に傾いたまま。彼は割れた絵の額縁を拾い上げる。ガラスの破片が、石の陽具の表面に落ちる。彼はその破片を——鋭い、三角形の——手に取る。

「私は——」

彼が言う。

「女装させられた息子だった」

その告白は——山頂の空気を変える。永遠の勃起を持つ者たちの間に、何かが伝播する。共感だろうか。それとも——別の感情だろうか。

「だが、私は描く」

氏子が続ける。彼はガラスの破片を——絵の具の代わりに——握る。鋭い縁が彼の掌に食い込み、血が滲む。

「右への傾斜を」

彼は石の陽具の表面に——自分の血で——線を描き始める。それは、右へ傾いた線だ。永遠の勃起の軌跡。精液の代わりに血を使い、塔の建設を——いや、塔の記録を——継続する。

私は筆を見る。そして、自分の右の陰嚢を見る。重みがある。永遠の重み。血脈の重み。選択の重み。

「描く」

私は言う。自分に言い聞かせるように。

「永遠に、描き続ける」

それが——私の答えだ。火の禽を殺すことも、捕まえることもできなかった。だが、描くことはできる。右への傾斜を、塔の未完成を、血脈の重みを——記録し続けることはできる。

ゾーリニーが微笑む——ように見える。彼の目尻の傷が、皺の間に埋もれる。

「実験は続く」

彼が言う。

「ピサの塔は、まだ傾いている」

私は頷く。そして、筆を——まだ乾いたままの筆を——石の陽具の表面に向ける。氏子の血の線の隣に、私の線を重ねる。精液の代わりに、汗を。あるいは——また、精液を。

山頂の空が——赤から、徐々に、通常の色へと戻り始める。黄昏が終わり、夜が来る。だが塔は——永遠の勃起の塔は——闇の中でも存在し続ける。それは光源ではなく、火の鳥だ。右への傾斜の、物質的証明だ。

氏子が私の隣に立つ。彼の掌から血が垂れ、石の陽具の表面を伝う。私たちは——右に傾いたまま——塔を見上げる。

「母は——」

氏子が呟く。

「生きている」

私は頷く。卑弥呼は——消えたが、死んではいない。彼女は観察者だ。重力の。右への傾斜の。父殺しの循環の。彼女は——永遠に、生き続ける。

「そして、私たちも」

私が応える。

描き続ける。それが——私たちの、永遠の勃起。私たちの、生きる姿勢。右へ。常に右へ。完成へ向かいながら、決して完成しない。塔へ向かいながら、決して塔に到達しない。

ゾーリニーが——いつの間にか——山頂の端に立っている。彼の姿が、闇に溶け始めている。謎めいた男は、謎めいた方法で、謎めいた場所へと去るのだろう。

「教授——」

私は呼びかける。だが彼は振り向かない。ただ——右手を挙げる。それは、別れの挨拶なのか、それとも——次の実験への約束なのか。

父親——晦冥——が、塔の基部に近づく。彼は——右に傾いたまま——石の陽具の一つに触れる。その表面に、息子の血と、孫の——私の——精液が混ざり合っている。

「汝夜晦冥」

彼が、最後に唱える。

その声が——山頂に満ちる。永遠の勃起を持つ者たちの間に伝播し、塔の構造に共振し、闇の空へと昇る。

私は筆を握りしめる。そして——描き始める。右へ傾いた線を。永遠に完成しない輪郭を。血脈の重みを、火の鳥を、選択の痕跡を。

氏子が、私の隣で——同じように——描き始める。ガラスの破片で。血で。右へ傾いた姿勢で。

塔は——また、建ち始める。今度は——精液ではなく、血と汗と、そして——意志で。永遠の勃起は、建築だ。そして、記録もまた、建築だ。

私は右の陰嚢の重みを感じながら、桃氷山の夜を描き続ける。これが——私の実験だ。私の生き方だ。完成を目指しながら、決して完成させない。右へ傾きながら、決して倒れない。

卑弥呼の言葉が——まだ、鼓膜に残っている。

「貴様は息子だった。男系の血を継ぐ資格を持っていたのに、私は貴様を娘として女装させ、育てた」

だが、それは——終わりではない。それは、別の始まりだ。氏子は——女装させられた息子だった。だが、彼は描く。彼は、右への傾斜を記録する。彼は、永遠の勃起の塔を——自分の方法で——建て続ける。

私も——同じだ。

筆先が石の表面を滑り、血と混ざり合う。新しい線が生じる。右へ傾いた線。永遠に——永遠に——描き続ける線。

塔は、闇の中で——また、一層、高くなる。

END
火の鳥 ― A Dalí Dream Record
視点依存の重力記録 / 完全改稿版